Safer Printmaking - より安全な版画

銅版画の材料

銅版画で使うハードグランドはアスファルトを白蠟と松ヤニを煮て固めたものです。黒ニスにもアスファルト、さらにタールが使われています。リグロインは神経障害を引き起こす恐れのある成分を含んでいます。確かにホワイトガソリンやリグロインを使っていると頭痛や吐き気を感じることがあります。その成分に詳しくなくても、環境や人体に悪いものを使っているなと感じる材料を多く扱っています。

版画に限らず画材には有害物質を含んだもが多く、世界的には規制する動きが進んでいます。版画の分野では、化学物質による環境への影響や健康被害が注目されるようになった1980年代から、「非毒性版画技法(Nontoxic Printmaking)」として、アメリカやカナダ、ヨーロッパの数カ国で研究が始まりました[1]。

このページは、下記の文献から私が知りたいことを抜粋しながら、考えをまとめるために書いたものです。この技法について興味をお持ちになりましたら、ぜひリンク先をお読みください。

参考文献

-マルニックス・エヴェラールト
[1]「もうそこまで来ている、版画の未来。」版画学会第45号(2016)

-湊七雄
[2]「非毒性版画技法を応用した美術教材の開発研究」大学版画学会第41号(2011)
[3]「ノントキシック版画技法の普及に向けたワークショップの開発」版画学会第45号(2016)
[4]「植物由来の素材を用いた環境対応型エッチング・グランドとクリーナーの研究開発 」版画学会第50号(2022)
[5]湊七雄/マルニックス・エヴェラールト「NON-TOXIC INTAGLIO PRINTMAKING ノントキシック銅版画への誘い」(福井大学教育地域科学部 湊七雄研究室)(2016)

・北山銅版画室 https://www.hanga.info
・nontoxicprint (Friedhard Kiekeben) http://nontoxicprint.com

技法の名前

一般的に「ノントキシック 版画 (Nontoxic Printmaking) 」と呼ばれていますが、「Nontoxic」には「無害で食べても大丈夫なモノ」というニュアンスがあり、この呼び方には議論もあるそうです[3]。少なくとも現段階で、この技法で使われる材料にも危険がないわけではないということは知っておかなくてはならないと思います[1]。
実際、当初ノントキシック版画にはアクリル系樹脂をベースにした水性グランドが使われていましたが、2019年にノントキシック版画研究の第一人者から、アクリル樹脂を使用した材料の危険性が示唆されました[4]。

無害ではないけれど、有機溶剤を使うよりはるかに安全なことは確かなので、「Safer Printmaking (より安全な版画)」[5]という言い方が一番しっくりくると私個人は思い、このページのタイトルにしました。ただ説明しようとする時に少し広すぎる感じもしてしまい、制作工程のページでは具体的に何を指しているか分かりやすくするため「ノントキシック版画」と表記しています。

転換へのハードル

版画家の方の講演会などお話を聞きに行くと、命が危なくなるほど体を壊した話が普通に出てきます。防塵マスクや換気が徹底されてきたのもそんなに昔のことではなく、銅版画家は早死にだと、当たり前のことかのように言われたりしていました。

銅版画で一番問題になるのは腐食に使う硝酸でした。その有害性が認知されるようになってから換気設備が整えられるようになり、さらに腐食液として塩化第二鉄を使う人が増え、第一の転換が起こったのではないかと思います。次は石油系の成分が含まれる材料、主にグランドとそれを除去するための有機溶剤を置き換えていくことになるかと思います。

ノントキシック版画は研究が始まってまだ40年ほどの新しい技法です。数百年の蓄積がある古典的技法に比べると不安定さや質の低さを、特に長く版表現を追求してきた人は感じると思います。ノントキシック技法に興味を持ってワークショップなどに参加しても、古典的技法に戻ってしまうことも多いようです[1][2]。私がノントキシック版画を知った頃、水性グランドが市販されるようになったのですが、いつの間に生産終了になってしまいました。使う人が増えなかったのだろうと思います。

転換へのステップ

画材として市販されているものは少なく、切り替えていくのは簡単ではありませんが、一つずつ実践できることは何か。日本でもワークショップをされているマルニックス・エヴェラールトさんのアドバイスを引用させていただきます[1]。

(1)リグロインやテレピンなどの有機溶剤の使用をやめ、キャノーラ油(または純粋な調理油)、VCA(野菜洗浄剤)、しょうゆなどに置き換える。
(2)腐食には、有害な煙をほとんど発生させない塩化第二鉄を使う。
(3)松脂、アスファルトベースのアクアチントの代用としてアクリルベースのスプレーアクアチントを使用する。
(4)化学的知識を持って、自分の使う製品の起こす化学反応や危険性を学び、その扱い方を知る。

これは2016年に書かれたもので、使用できるものについては日々研究が進んでいるので、より取り入れやすくなっていくと思います。現在、植物由来の素材を主成分としたグランドの研究開発が行われているそうです[4]。

大層な換気をしなくても良くなれば、生活する部屋でも作業ができるようになって銅版画が身近なものになるかもしれません。出産を機に子どもへの影響を考え諦めざるを得なくなってしまった人も、また再開して、続けていけるかもしれません。小さな子どもでも安心してワークショップに参加できるようになるかもしれません。

腐食に用いる硝酸と塩化第二鉄では仕上がりが違うようで、硝酸を手放すことが難しい人もいると聞きます。私は銅版画を始めてから硝酸を使ったことがなく、違いも分かりませんのでそこにこだわることはありませんでした。そんな風に、版画を始めた時からノントキシック版画が当たり前だった人が増えれば自然と変わっていくような気もします。そのために、私のような本当に小さな小さな小屋教室でも、伝えていくちょっとした責任があるのかなと思っています。

作家が生涯にわたって長く制作していけるという意味での持続可能性と、これから何年先の人たちも版画を作っていける環境や社会の持続可能性について、この技法に取り組みながら考えていきたいと思います。この技法に関するページは、今後また加筆修正していく予定です。まずは今、2023年1月に知り得たこと、考えたことです。